スポーツに置いてポジション争いというものは常に存在する。野球も同様である。その中でも捕手というポジションについては、完全に「専門職」のポジションであり、他のポジションからプロ入り後に捕手に転向するという例がほぼないことからも分かるように非常に難易度の高いポジションである。そして当たり前のことではあるのだが、1つしかないポジションである。近年は、負担の大きい捕手というポジションを複数の捕手を併用しながら戦っていくチームが多数派になり始めたのだが、野口寿浩がNPBでプレーしていた時代は、「優勝チームに好捕手あり。」と言われていた時代であり、一旦レギュラー捕手が誕生すると、他の捕手が出場機会を得ることが難しい時代だった。そんな時代に稀代の名捕手古田敦也とドラフト同期でヤクルトに入団した野口は、常に古田の控え捕手という立場でプレーせざるを得なかった。先日YouTubeの「フルタの方程式」で古田と野口が一緒に話をする場面を見て、改めて野口について触れてみたくなった。日本ハムに移籍後、レギュラーを獲得し、オールスターにも出場するような選手になったため、野口が好捕手であることに違いはないのだが、様々な要素が重なれば、もしかするともっと数字を残せた捕手になったのではないだろうか?今日は、「if」の世界で野口について考えてみたい。
野口は、1989年オフにドラフト外で習志野高校からヤクルトに入団している。この時のドラフト2位が古田敦也である。私は、野口については、ドラフトで指名される実力になかったため、ドラフト外でヤクルトに入団したものだと思っていたのだが、実際には、早稲田大学へ進学するとの情報を流し、他球団に指名されることを回避した上で、ドラフト外でヤクルトが獲得したという事情があったようである。いわゆる「囲い込み」ということになるだろうか?私はまだ幼かったため、当時の野口の評価がどの程度だったかは全く分からないのだが、こういった事情を鑑みると高校生捕手としてはある程度評価が高かった捕手なのかもしれない。
その野口は、2軍で経験を積みながら、将来の正捕手への道を歩もうとしていたのだが、1軍ではルーキーイヤーから古田がレギュラーを獲得し、いきなりゴールデングラブ賞を獲得すると、2年目以降は、打撃面でもNPBトップクラスの数字を残すようになり、ヤクルト黄金時代を象徴するスーパー捕手として君臨していた。冒頭でも触れた通り、不動のレギュラー捕手がいるチームでは、他の捕手が出場機会を得ることは難しくなってしまう。古田という6つ年上のレギュラー捕手の存在は、野口にとってはあまりも高い壁になってしまっていた。
そんな野口にチャンスが訪れたのは、94年のシーズンだった。古田が開幕早々、ファールチップを右手に受け、骨折し、長期離脱となると、古田の代わりに野口がスタメンマスクを被る機会が増えた。強さと柔らかさを兼備した捕手として、必死に古田の穴を埋めようとする姿が印象的である。一ヤクルトファンにとって、古田の長期離脱はかなりショッキングな出来事だったのだが、シュアな打撃を見せてくれる野口を見て、「頑張れ!」と必死になって応援したことを覚えているし、スタメンマスクを被るようになった当初には、ニュース番組のスポーツコーナーで特集されることもあったように記憶している。もちろん当時の古田と比べてしまえば、比較すること自体難しい程に実力差はあったと思うのだが、今思えば、古田以外の捕手との比較であれば、どの球団の捕手と比べても勝負が出来る程の実力を持っていたのではないだろうか?この時野口はまだ23歳という年齢である。これまで1軍での出場経験がほぼない23歳の捕手がいきなりレギュラーマスクを任されながらも、必死に1軍のゲームに喰らい付いていただけでも立派なことである。結局古田が復帰すると野口の出番はなくなってしまい、95年シーズン以降も出場機会を増やすことが出来なかったのだが、98年に日本ハムへトレード移籍してから、その能力が開花することとなる。
日本ハムではレギュラーポジションを掴むと、強肩好打の捕手として存在感を放ち、オールスターゲームにも2度選出される程の選手となった。2000年には、134試合に出場し、打率.298、本塁打9本、打点76とキャリアハイの成績を残してみせた。打撃面、守備面の両面でチームに欠かせない捕手となっていった。日本ハムでの5シーズンは、主力捕手としての役割をしっかりこなすことが出来、野口が最も輝いていた期間ということになるのではないだろうか?
その後2003年~2008年は、阪神で、2009年~2010年は横浜でプレーし、引退することとなったのだが、20年に渡って4球団でプレーしたということは、その実力を評価した人が数多くいたことを示していると思われる。
しかし数字自体を振り返ってみるとレギュラー捕手として活躍したシーズンは、日本ハム時代の4,5年程度であり、その他の約15年間は、控え捕手として過ごしたことになる。捕手というポジション柄、こういった捕手はどのチームにも存在するのだが、野口に関しては、もしレギュラー捕手を確保していたらどうなっていたのか?という部分を想像してみたくなる選手である。
ifもしも…①
「古田がヤクルトにドラフト指名されていなければ…」
・野村監督は就任当初、捕手は高卒の捕手を育てるから、社会人の古田をドラフト指名することに躊躇いを感じていたとの話しもある(諸説あるため、何が本当か分からない部分もあるのだが、私は、野村監督は本当に高卒捕手を育てようという意思を持っていたのではないか?と推測している。)。そうなると野口が野村監督に鍛えられ、育成のために1軍での出場機会を増やしていった世界も見えてくるかもしれない。捕手としては、スピード感もある野口の存在がヤクルトで花開いた可能性もある。
ifもしも…②
「野口が他球団にドラフト指名されていれば…」
・習志野高校時代から捕手としての潜在能力の高さを評価されていた野口であれば、他球団でレギュラー捕手の座を獲得した可能性はあるだろう。古田や西武の伊東辺りは別格の印象はあるが、その他の球団の捕手とのレギュラー争いであれば、ヤクルトで出場機会を得た94年頃には、すでにレギュラーを獲得していた可能性もあるのではないだろうか?
ifもしも…③
「野口が早稲田大学に進学していたら…」
・当時の早大の捕手が誰だったのか把握していないのだが、もし早大へ進学していれば、身のこなしの良い大型捕手として、93年のドラフトでは目玉候補になっていたかもしれない。逆指名制度で入団していてもおかしくないような選手になっていたかもしれない。
ifもしも…④
「野口が外野手にコンバートされていたら…」
・野口と言えば、足の速さも武器にしていた捕手である。捕手を続けていると足は遅くなると言われており、身体能力の高い捕手が他のポジションにコンバートされることは、時々あることである。ヤクルトであれば飯田哲也がコンバート後に才能を開花させたし、阪神、中日などで活躍した関川、楽天の岡島などもコンバート組である。もしかすると野口もコンバートによって開花した可能性もあるかもしれない。
長年に渡って様々なチームの捕手として役割をこなした野口はやはり名捕手なのだが、「if」の世界を想像してみると、実際に残した数字以上のものを残した可能性がある選手であることが見えてくるような気がする。
「野口寿浩」ヤクルトファンにとっても忘れられない隠れた名捕手である。
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コメント
古田の代役で出場した初めの頃は不安そうにベンチを見ていましたが、正捕手だった期間が短くても、現役生活が長かったのは凄いことですね。
超匿名さんへ
4球団渡り歩いているということは、それだけ必要とされた選手ということなのでしょうね。本当にifで語りたくなる選手の代表格だと思っています。