坂元弥太郎のスライダー

選手


坂元弥太郎(浦和学院)のスライダーは甲子園史に残る変化球の一つだったと思っている。
私が高校野球を最も熱心に見ていたのは小学校~中学校の9年間だった。高校に入ると自分の部活動が忙しくなり、高校野球を熱心に見ることは難しくなっていた。そんな私が部活を引退して、久々にじっくり甲子園大会を見た時に活躍していたのが坂元弥太郎だった。私は、坂元の存在を、甲子園での投球で初めて知ることとなる。
もちろん坂元は、当時から高校トップクラスの投手だったと思うのだが、プロ注目の投手としてよく名前が挙がっていたのは、森(七尾工)、内海(敦賀気比)、香月(柳川)、田中(加賀)、中里(春日部共栄)辺りだったように記憶している。おそらく坂元はこれらの投手と比べると多少評価が低かったのではないだろうか?
しかし坂元は、埼玉県大会で見事な投球を見せ、決勝戦では、中里との壮絶な投げ合いを制して、甲子園への切符を手にすることとなる。この2000年の埼玉県大会決勝は、埼玉県の高校野球ファンの間では語り草となっている伝説の決勝戦のようである。
私はと言うと、当時名が通っていた中里の投球を甲子園の舞台で見たいと思っていたため、少し残念な気持ちも持っていたのだが、だからこそ坂元の奪三振ショーに衝撃を受けた。ストレートは140キロを超え、スライダーは、おそらく縦、横2種類を使い分けていたように記憶している。このスライダーが「超高校級」のボールだった。右打者、左打者関係なくカウント球にも勝負球にも使えており、初戦の八幡商戦では、19奪三振、2回戦の柳川戦では16奪三振と全国大会に駒を進めてきた強豪相手に奪三振ショーを披露してみせた。柳川戦では、初回に崩れて4失点を喫してしまい、甲子園を去ることとなるのだが、前評判が高かった柳川のエース香月と比べてもボール自体のキレでは、坂元が勝っているように見えたものである。
その坂元は、この年のドラフト会議でヤクルトに4位で指名され、プロの世界に足を踏み入れることとなる。おそらくは、甲子園での活躍があったからこそ、高卒即プロ入りを果たせたタイプの投手だったように感じるのだが、坂元はヤクルトでも1年目からイースタンで結果を残し、2年目には、1軍で登板を重ねることとなる。プロの中では、ストレートの球速が速い訳ではなかったのが、坂元が武器とするスライダーは、プロの世界でも十分通用するボールであり、この年の巨人戦では、8回1アウトまでノーヒットピッチングを続けるなど、インパクト十分の投球を見せてくれた(その後チームは逆転負けを喫し、そういう意味でも印象に残っているゲームなのだが…)。この時の投球がシーズンの勝ち運のなさを象徴しているようだったのだが、この年坂元は、先発を中心に29試合に登板するのだが、3勝9敗 防御率3.68という数字に留まっている。シーズン終盤の広島戦で完封勝利を上げるなど、好投する試合も多かっただけにもう少し見栄えの良い成績になっても良かったのだが、この年は勝ち運に見放されてしまった。それでも高卒2年目の投手としては、立派な投球を見せてくれていた。球団の期待も大きく、03年からは、背番号も11に変更となったのだが、ここから成績が停滞してしまい、中々結果が残せなくなってしまった。結局ヤクルトでのキャリアハイは、2年目の投球となってしまい、その後日本ハムー横浜ー西武と各球団を渡り歩くこととなる。トータル13年間NPBでプレーしたのだから、十分結果を残したと言えるのかもしれないが、浦和学院時代の甲子園での投球、プロ入り2年目の好投を思うと物足りなさを感じるのも事実である。個人的には身体が出来上がってきてストレートにボリューム感が出てくれば、一気にエースの座を奪えるような投手になると見立てていたため、やはり物足りなさを感じてしまう。それでも坂元弥太郎が投げていたスライダーは一級品だったと思っている。このスライダーがあったからこそ、坂元はプロの舞台でプレーできたのだと思う。坂元弥太郎の「スライダー」、忘れられない変化球である。

P.S ちなみに個人的に甲子園大会で最も印象に残っている変化球は、松井裕樹のスライダーである。→「桐光学園松井投手22奪三振の大会新記録! | ヤクルトファンの日記 (ysfan-nikki.com)




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