阪神大震災と藤本敦士

選手


1995年1月17日。私は当時まだ小学生だった。私の家族は、毎日朝食時にテレビをつけ、ニュースを見ていたのだが、その日は、兵庫県、大阪府を中心に起きた地震のニュース一色だった。私にとって物心が付いてから初めて経験する大きな震災のニュースだった。漠然と大変なことが起こったことは理解することが出来たのだが、私の住んでいる地域では、この地震による被害は全くなかったため、通常通り小学校へ登校した。登校中友達と地震のニュースの話をしたこと、登校後先生が地震のニュースの話をしていたことも薄っすらと記憶している。
そして音楽の授業の冒頭に音楽の先生が、「1人お亡くなりになられた方もいるようです。」と言ったことも何となく記憶している。その時「地震でお亡くなりになってしまった人もいるんだ。」と少し驚いたことも覚えている。
学校ではテレビを見ることも出来ないため、おそらく学校では先生の話し意外に新たな情報を得る手段はなく、ほぼ普段通りに学校生活を終え、夕方に帰宅しテレビを見ると、大規模な火災が起き、兵庫県の至る所で焼け野原になっている映像と膨大の死者、行方不明者の数を見て、こどもながらに唖然としたことも覚えている。私が阪神大震災がどれだけ大変な災害なのかをはっきり理解したのは、1月17日の夕方のことだったと思う。とにかく大変なことが起こってしまったんだということを理解し、テレビにくぎ付けになっていた。私が物事を理解し始めてから様々な衝撃的な出来事を経験してきたが、阪神大震災というものも色々と考えさせられる出来事だった。

そんな阪神大震災が発生してから昨日で30年が経過した。時の流れというものは、早いものである。阪神大震災とスポーツというもの結び付けた時によく語られるのがオリックスブルーウェーブと神戸製鋼ラグビー部なのだが、震災から2か月後に甲子園球場で開催された春のセンバツ高校野球も震災とセットで語られることが多い。
私は、小学生の頃から夏休み、春休みの一番の楽しみは、高校野球をテレビ観戦することだったため、センバツが予定通り開催されることを願っていた。それは、ある意味では、被災地や被災者のことまで思いを馳せることが出来ていなかったということでもあると思う。私の中では、趣味のスポーツ観戦は、現実と離れた所で行われている世界という認識があり、被災地の現状や選手達の置かれている状況などまで現実的に考えることが出来ていなかった。「センバツ高校野球が開催されなければ、私の春休みの楽しみがなくなってしまう。」程度の認識だったように記憶している。私はまだまだ未熟な小学生だった。兵庫県勢が3校選ばれたことについて賛否が分かれていたことも記憶しており、私自身もこの事柄には、興味を持っていたのだが、今思えば、そんなことで議論をしているタイミングではなかったのかもしれない。95年のセンバツ高校野球を被災者の方々はどういった視点で見ていたのだろうか?もしかするとセンバツの開催に反対する意見も多かったのかもしれない。被害の大きさを考えると甲子園球場で例年通りセンバツ高校野球が開催されたのは奇跡に近い出来事だったのかもしれない。
その中で必然的に兵庫県から出場した三校、育英、神港学園、報徳学園には、注目が集まっていた。育英高校の三拍子揃った遊撃手、藤本敦士は、元々その野球センスの高さが注目されていたのだが、震災も相まって、更に注目度が上がっていたように記憶している。また主将を務めていたことからメディアが取り上げる頻度も高くなっていたのではないだろうか?プレー以外の部分でも注目される存在になっていたし、この大会における主役の一人となっていた。
その藤本は、決してサイズに恵まれたプレーヤーではなかったのだが、前評判通り、走攻守三拍子揃ったプレーを甲子園の舞台で披露してくれていた。私もテレビで見て、この藤本のプレーに魅力を感じていた。しかし2回戦の前橋工業戦で藤本のエラーによってサヨナラ負けを喫してしまったのである。この瞬間もテレビで見ていたのだが、藤本がファーストへ送球した瞬間に私は「アッ」と声を出してしまった。投げた瞬間に明らかに暴投だと分かる送球軌道だったからである。今大会の主役の一人が自らのエラーでサヨナラ負けを喫した瞬間は、こどもながらに衝撃を受けた。「こんなことも起こるのだな…。」とテレビの前で呆然としたことを覚えている。
そんな藤本はその後、紆余曲折を経て、2000年に阪神にドラフト7位で入団することになる。甲賀総合科学専門学校(亜大中退)ーデュプロという異色の経歴ではあったのだが、育英高校出身の藤本敦士の名前を見て、すぐに「あの時の藤本だ!」と思い出すことが出来た。正直プロではどうなのかな?という思いもあったのだが、藤本は、プロ入り後程なくしてチームに欠かせない選手に成長し、2003年にはショートのレギュラーとして大活躍し、阪神のリーグ優勝に大いに貢献してみせた。その後は、毎年のようにチーム内での激しいレギュラー争いに巻き込まれながらも、人気選手のひとりであり続けた。選手生活の後半は、FAでヤクルトに移籍し、ユーティリティプレーヤーとしてベテランらしくプレーしてみせた。ヤクルト時代は、派手に活躍することはなく、私自身も藤本をFAで獲得すること自体、否定的な意見を持っていたのだが、藤本敦士という野球人は、私の記憶に強く刻まれているプレーヤーの一人である。
阪神大震災が30年が経過したことから、藤本のインタビュー記事を目にする機会もあったのだが、やはり95年のセンバツに関しては、「野球をやっていても良いのか?」という疑問を持ちながら大会を迎えたようである。1回戦で勝利し、被災地の方々が涙を流して喜んでいる姿を見て、ようやく前向きに野球に取り組もうと思えた、という主旨の言葉もあった。それ程までにあの環境下で野球を行うことには葛藤があったのだと思う。そういった環境の中でキャプテンとして育英高校で戦った経験がひたむきに努力する藤本を作り上げたのかもしれない。育英高校での藤本、阪神での藤本、そして私の贔屓球団であるヤクルトでの藤本、いずれの姿も印象的である。
阪神大震災のニュースを見るたびに私は藤本敦士のことを思い出すのだと思う。




【中古】BBM/レギュラー/BBM 東京ヤクルトスワローズベースボールカード2012 S47 [レギュラー] : 藤本敦士

価格:200円
(2025/1/18 20:36時点)
感想(0件)




にほんブログ村 野球ブログ 東京ヤクルトスワローズへ
にほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました