野球好きが集まって会話をするときに「アレックス・ラミレス誰のもの?」ということが話題に上がることがある。ヤクルトファンは当然「ヤクルトのラミレス。」と言うし、巨人ファンは「巨人のラミレス。」と言うし、DeNAファンは「DeNAのラミレス。」と言う。また長きに渡ってNPBで選手、監督として活躍したため、年代によっても野球を見始めた時期によってもラミレスの印象は違ってくるだろう。それ程までに日本球界に影響を与えてくれた選手である。
このブログは、「ヤクルトファンの日記」であるため、今日はヤクルト時代のラミレスのことを中心に触れていきたい。
ラミレスがヤクルトでプレーしたのは01年~07年までである。01年については、まだ26歳という年齢であり、キャンプ中に故野村克也氏が「この選手のバッティングは日本でも通用するように感じる。」という主旨の話をスポーツニュースで語っていたことを覚えている。
01年シーズンは、いきなりリーグ優勝、日本一に貢献することとなるのだが、当時はすでにヤクルトの主力となっていたペタジーニの陰に隠れる存在という印象を持っていたファンも多かったのではないだろうか?NPB初年度ということもあり、ストライクからボールに変化するボールの見極めに苦労していた部分もあるのではないだろうか?
しかし2年目以降は、徐々にNPBの投手のボールにアジャストし、率もホームランも稼げるバッターに成長していった。勝負強さもあり、03年~07年は毎年100打点以上を記録してみせた。チームとしては、01年の日本一以降、中々勝ち切れない時期が続き、07年は、チームが最下位に沈んでしまうのだが、そんな中でも毎試合のようにスタメンレフトで出場し、結果を残し続けるとともに、パフォーマンス含めファンを盛り上げてくれていたラミレスは、間違いなく「ヤクルトの太陽」的存在だった。
07年は、204安打を放ち、打率.343、ホームラン29本、打点122という素晴らしい数字を残し、最多安打と打点王のタイトルを獲得してみせた。そんなラミレスが、このシーズンを持って巨人に移籍してしまったのは、ファンとして非常にショックが大きかった。チームが低迷してもレフトで、打席で輝き続けてくれた太陽が当時のセリーグを引っ張っていた巨人に移籍してしまう。しかもエースとなっていたグライシンガーと一緒に…
ヤクルトの主力が巨人に移籍してしまうことについては、FA制度が始まって以降は、よくあることだったし、外国人選手の移籍も同様によくあることだったため、慣れてきていた部分もあるのだが、最下位になったシーズンオフに投打の柱であるラミレスとグライシンガーを優勝チームに獲得されてしまったという現実はあまりにも重いものだった。
それでも7シーズンに渡ってコンスタントに活躍し続けたラミレスはやはりヤクルト球団史に残る助っ人外国人選手だった。
そして移籍先の巨人でもコンスタントに数字を残し続けてみせた。当時は巨人に移籍したことで数字を落としてしまう選手も多かったように記憶しているのだが、新たな環境でもしっかり適応して、強いチームの主軸としてチームに貢献するということは、目に見えない部分含めて力のある選手だったということなのだと思う。
最晩年はDeNAでプレーし、その後監督としても5シーズン指揮を執り、3度のクライマックスシリーズ進出、1度の日本シリーズ進出を果たしてみせた。明るいキャラクターが取り上げられることが多かったのだが、その実クレバーな野球人だった。
ヤクルトを去ってからすでに15年以上の月日が経ち、「ヤクルトのラミレス」を知らない世代も多くなってきている。しかしヤクルトスワローズで活躍し続けた7年間は、ヤクルトファンにとっては特別なものとなっている。あの頃のラミレスはヤクルトファンに元気を与えてくれる存在だった。
過去記事はこちらから→ラミレス2000本安打達成。ヤクルトは3連敗 | ヤクルトファンの日記 (ysfan-nikki.com)
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コメント
ヤクルトファンですがこの人は監督まで務めたこともありベイスターズの人という風に見ています。なさそうですがヤクルトで監督なりコーチなりすることがあれば、またイメージが変わるかもしれません。
超匿名さんへ
ラミレスは、最近のプロ野球ファンの方であれば、DeNAのイメージが強いかもしれませんね。
超匿名さんのように最近からのファンでなくても、やはり監督を務めたということで、DeNAのイメージが強くなっている方も多いかもしれませんね。