広沢→広沢克→広沢→広澤

選手


私がヤクルトスワローズのファンになったのは、1988年のことである。その時期にヤクルトスワローズの主軸を担っていたのが広沢である。池山とのいわゆる「イケトラ」コンビは華があり、人気があった。
過去記事はこちら→池山隆寛の華 | ヤクルトファンの日記 (ysfan-nikki.com)
まだ幼かった私は、細身ながら身体がねじ切れるほどフルスイングをし、守備でもダイナミックなプレーを見せてくれた池山に強く惹かれた部分があるのだが、当然広沢も好きな選手だった。常に打線の中核を担い、大きな怪我もなく、試合に出続けてくれた。ヤクルトスワローズの試合を見れば、いつもそこには広沢の姿があった。強い身体の持ち主でもあった。
私がヤクルトを応援し始めた時は、関根監督時代であり、池山、広沢の両選手が競い合うように豪快なスイングを繰り返していた時期である。フルスイングと言えば「ブンブン丸」と呼ばれた池山のイメージの方が強いのだが、広沢も野村監督が就任するまでは、とにかくフルスイングするイメージがあり、88年には30本のホームランを記録している。しかしその反面三振が多いという明確な課題もあった。おそらくこの時期の広沢は、同世代の池山に強烈なライバル意識を燃やしていたと思われる。池山に負けないこと、そして長打でお客さんを喜ばせたいという部分を強く意識していたのではないだろうか?今思うと、この時期の広沢は自分の打撃面での長所を活かしきれていなかったという部分もあるのかもしれない。右方向にも大きな当たりを放つことが出来、上半身の動きに柔らかさも感じる広沢であれば、ここまで三振数が増えてしまったのは少し不思議にも思える。おそらくチームで求められる打撃を行った故の数字だったのではないだろうか?
野村監督が就任した90年からは、表記が「広沢克」となった。ライバルの池山は「ブンブン丸」を卒業し、チームバッティングが出来る選手に変身していったのだが、広沢克も池山同様に、チームバッティングというものが求められるようになった。しかし野村監督は広沢克を4番として起用し、あくまでも走者を返す役割を求めていた。だからこそ当初は三振の数が減らなかったのではないだろうか?それでもヤクルトの主力として、常に数字を残し、92年、93年のリーグ連覇、93年の日本一に大いに貢献してみせた。打撃面に関しては、脆さを感じることもあったのだが、それでも広沢克が4番に座り続けてくれたことは、チームにとっても大きかったのではないだろうか?92年、93年に関しては、もしかすると古田、ハウエル、池山らが語られることの方が多いのかもしれないが、やはり4番に広沢克がどっしり収まっていてくれたことが大きいと感じる。ヤクルト黄金期を語る時に欠かせない選手の一人である。
そんな広沢克は、94年シーズン後にFA宣言をし、ライバル巨人へ移籍することとなった。当時の巨人は、いわゆる4番打者をかき集めている時代であり、広沢自身も本来の実力を発揮し辛い環境に置かれてしまった部分があったと思われる。ある程度の数字を残したシーズンもあったのだが、ヤクルト時代のように輝いていたという記憶はあまり残っていない。
最晩年は、広澤表記で阪神でプレーし、数字以上に勝負強いバッティングを見せてくれることもあったのだが、やはり私の中では「広沢」、「広沢克」表記だったヤクルト時代の印象が最も強い。ヤクルト時代の話(特に野村監督の話)をする際には、古田とはまた違った方向で味のあるトークを展開してくれる。野村監督にも感じることなのだが、広澤もヤクルト時代の話をするときが一番活き活きしているように感じる。野村監督にとっても広澤にとっても、やはりヤクルト時代というものは特別なものになっているのではないだろうか?




いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」 [ 長谷川 晶一 ]

価格:1980円
(2023/11/20 10:41時点)
感想(5件)




にほんブログ村 野球ブログ 東京ヤクルトスワローズへ
にほんブログ村

コメント

  1. sabo より:

    30本塁打が一回とは意外でした
    昔は最多勝利打点がタイトルだったんですね。打点王2回、最多勝利打点2回はチームへの貢献度の高さを感じますね

    野村監督は楽天時代山崎武司にホームランを打つように命じて、ヤマが外れたら見逃し三振しろと伝えたらしいので広沢にも似たような作戦があったかもしれませんね

    広沢の打撃理論を以前聞いたとき結構面白いと感じたのでコーチとして教えて見てもらいたいのですがちょっと縁が無い感じですね

    • fiys より:

      saboさんへ

      野村監督になって以降池山のバッティングスタイルは明らかに変わったと思ったのですが、広沢は常に4番で起用していましたからね。野村監督なりに考えがあったのかもしれませんね。勝負強い4番打者でしたよね。

  2. 超匿名 より:

     この時代は中日には落合、巨人に原、西武には清原がいました。そんな中でも広沢の成績に不満を感じた覚えはありませんが、今記録を振り返ると少し物足りない気もします。これも村上のせいですね。

    • fiys より:

      超匿名さんへ
      村上やペタジーニと比べられる打者は中々いませんからね。しかし広沢も走者を返す打者としてしっかり4番の役割をこなしてくれたのではないでしょうか?

タイトルとURLをコピーしました