広田の記憶と廣田の記憶

選手


広田浩章もしくは廣田浩章という名前に見覚えはあるだろうか?80年代後半~90年代にかけて主にリリーフとして活躍した右腕である。
「広田」表記で記憶しているという方は、巨人時代の姿が印象に残っている方が多いのではないだろうか?当時の強力巨人投手陣の中にあっては、どちらかというと地味な存在ではあったのだが、いなければ困る投手だったことは間違いないはずである。
藤田監督時代の巨人は、斎藤、槙原、桑田の三本柱を中心に投手と言えば先発投手というチーム作りを行っていた。89年には、130試合中先発投手が69試合完投するというとんでもない数字が残っている。そんな時代にリリーフを務めていた広田はやはり地味な存在に映った。しかしストレートにスピードがあり、カーブ、スライダー、シュートと緩急と内外角の出し入れで勝負する正統派なスタイルで、しっかり自分の働き場所を得ることが出来ていた。まだ毎試合巨人戦が地上波中継されていた時代だけに広田の知名度も野球ファンの間では低くはなかったと記憶している。
しかし、その後広田は故障に苦しみ、93年、94年シーズンを棒に振ると巨人を戦力外となり、95年シーズンよりダイエーでプレーすることとなる。94年より登録名を「廣田」表記に変更しており、「廣田」で記憶している方は、おそらく巨人から移籍した後の記憶が強く残っているという方が多いはずである。
実際は、ダイエーでは、それ程活躍することが出来ず、再び廣田に光が当たったのは、ダイエーを戦力外となり、97年シーズンよりヤクルトでプレーするようになってからである。いわゆる「野村再生工場」のもとで結果を残し、チームのリーグ優勝、日本一に貢献することとなる。
野村監督のもとで花開いたり、復調したりした選手は数多いのだが、廣田の復活劇に関しては、かなり驚いたことを覚えている。巨人での最後の2年間は、怪我で登板がなく、移籍したダイエーでも結果を残せていなかった廣田は、年齢的にもすでに33歳となっており、言い方は悪いが「昔の名前で出ています」といったような状況だったはずである。タイプ的にも上記の通りオーソドックスなスタイルの投手だっただけに、活躍する絵が浮かばなかったものである。
しかし廣田は、ヤクルトに移籍後リリーフとして大いにチームを支えることとなる。
97年 59試合 1勝0敗3S 防御率2.71
98年 52試合 4勝2敗7S 防御率2.56
99年 37試合 3勝3敗0S 防御率2.90


ヤクルトに在籍していた3年間の数字は、上記の通りである。「広田」表記だった頃との一番の違いは、腕の位置をスリークォーター気味に下げたこと、そのフォームから右打者の懐に激しく喰い込むシュートを多用するようになったことである。このスタイルで巨人時代の88年~90年辺りに投球に負けずとも劣らない投球を披露してくれた。
経験値の高さからくるマウンド度胸もあってか、テレビで見ていても廣田の投球は安心してみることが出来た。99年のシーズンオフに残念ながらヤクルトを戦力外となってしまったのだが、33歳~35歳という年齢のシーズンにこれだけの数字を残した廣田は、「野村再生工場」の傑作の一つということになるのではないだろうか?









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