野村再生工場の最高傑作!田畑一也!

選手


野村監督がヤクルトを率いた際によく用いられていた言葉の中に「野村再生工場」という言葉がある。他球団からトレードで移籍してきた選手や戦力外後に移籍してきた選手がヤクルト移籍後に活躍する機会が多くあったことから用いられるようになった言葉である。そんな「野村再生工場」の中で「最高傑作」と謳われたのが田畑一也である。
田畑が最初に注目を浴びたのは、ドラフト会議の時である。91年のドラフトでダイエーからドラフト10位で指名されることになるのだが、これは、全体の最下位の指名であり、長年ドラフト会議の司会を務めてきたパンチョ伊東こと伊東一夫氏が最後に読み上げた指名選手となったため、この場面は、何度かスポーツニュースなどで取り上げられていた。また指名された時にはすでに北陸銀行を退職しており、所属先が父の営む「田畑建工」だったことも異色の選手の指名ということで注目されることとなった。私は、フジテレビ系列の夕方のニュース番組「スーパーニュース」のスポーツコーナーでこの田畑が取り上げられていたため興味を抱いたことを薄っすらと覚えている。
しかしダイエー時代の印象は、ほぼ残っていない。大きく活躍することがないまま、プロ生活4年が経過していた。そんな田畑に大きな変化が起こったのは、その年のオフである。ヤクルトの柳田、河野とダイエーの田畑、佐藤による2対2のトレードが成立し、田畑は、ヤクルトに移籍することとなった。どちらかというとアマチュア時代に全日本に選ばれ、オリンピックにも出場していた佐藤真一の方がネームバリューはあったと思うのだが、おまけのようにも思われていた田畑が新天地で大きく飛躍することとなる。
移籍1年目から多くのチャンスを与えられた田畑は、先発ローテーション入りを果たし、安定感のある投球で33試合に登板し、177回を投げ、12勝12敗1S、防御率3.51という見事な数字を残してみせた。特別サイズに恵まれている訳でもなく、剛速球を持っている訳でもなく、明確なウイニングショットを持っていたという印象もないのだが、ボールのキレと緩急、内外角を広く使う投球がハマり、一気に主力投手の座を確保してみせた。ヤクルト2年目のシーズンとなった97年には、前年を上回る15勝5敗、防御率2.96というキャリアハイとなる数字を残し、チームのリーグ優勝、日本一に貢献してみせた。活躍した期間が短かったこと、日本シリーズで結果を残せなかったこともあり、「エース」という印象は残っていないのだが、しっかり試合を作り、常に先発投手としての役割を果たしてくれた印象が残っている。正直「パッと見」では、プロで大活躍するようには見えないような、よくいるタイプの普通の投手に見えるのだが、打者のインコースをしっかり攻めることが出来ること、緩い縦カーブでカウントを作ることが出来たこと、96年、97年の2シーズンに関しては、ストレートのキレが良かったことが、大活躍に繋がったのではないだろうか?
そして何よりも野村監督の燻っている選手を活かす選手操縦術が冴えわたった結果なのではないだろうか?当時のヤクルトには燻っている選手や復活をかけるベテラン選手に「野村監督の下で最後にプレーしてみたい。」、「古田のリードで投げてみたい。」と思ってもらえるだけの魅力があった。そんな選手達の代表格となったのが、この田畑である。活躍した時期からすでに30年近くが経過し、語られることも少なくなってきたのだが、ヤクルト黄金期の一部分を担ってくれた忘れてはならない名投手である。




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コメント

  1. sabo より:

    97年は凄かったですよね。この頃はエースが毎年変わるような感じでしたけど、そこも野村再生工場の凄さだったのかな。

    田畑投手は引退後もNPBにコーチとして残って独立リーグや韓国に行ったり、今は通信制高校の監督をされてるみたいで野球に完全に骨をうずめる生涯になるとは入団前は夢にも思わなかったでしょうね

    選手育成頑張ってほしいです

    • fiys より:

      saboさんへ

      今は通信制高校の監督をしているのですね。ドラマになりそうな野球人生を送っていますよね。

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