ヤクルト・青木宣親が引退会見「幸せな野球人生だった。100点満点です」(2/2ページ) – サンスポ (sanspo.com)
上記のサンスポの記事の通り、青木の現役引退が発表され、本日引退会見が行われた。早大からヤクルトにドラフト4巡目で指名されてからヤクルトで通算15年間、メジャーで通算6年間の合計21年間という長きに渡るプロ野球生活にピリオドを打った。
青木のプロ野球人生を大雑把に分けると、04年~11年までヤクルトのスタープレーヤーとして輝いた8年間、メジャーで存在感を放ちながら、最後はジャーニーマンとして奮闘した6年間、36歳でヤクルトに復帰し、有形、無形の力でヤクルトをリーグ優勝、日本一に導いた7年間の3つの時代に分けることが出来るのではないだろうか?
①04年~11年「スーパースター誕生」
・黄金期の早大を支えた一人である青木は、そのスピードを評価され、ドラフト4巡目でヤクルトに指名された。早大で同期の鳥谷と比べれば、評価は高くなかったのだが、プロ1年目からイースタンリーグで、驚異的な打率で首位打者を獲得するなど、すでにこの時から次代のスター候補生となっていた。その青木は、プロ2年目の05年にレギュラーとして抜擢されると、高い打撃技術とスピードを活かした走塁、守備で瞬く間に球界トップクラスの選手に成長していった。その勢いはシーズン終了まで衰えず、打率.344で首位打者、202安打で最多安打、そして新人王も獲得してみせた。まだプロ2年目の若武者が残した驚異的な数字にヤクルトファンだけでなくプロ野球ファンみんなが驚いたものである。
それ以降は、ヤクルトの「顔」として、そして日本を代表するヒットメーカーとしてスーパースターとしてヤクルトを支えていくこととなる。
06年以降も、2年目のジンクスなどと言う言葉とは無縁のシーズンを送っていくこととなる。徐々にその打撃技術にパワーが加わり、長打、ホームランの割合も増やしていった。上記のサンスポの記事にも掲載されているのだが、05年.344、06年.321、07年.346、08年.347、09年.303、10年.358、11年.292という打率の推移は、驚異的である。いつでも安定してヒットを放つことが出来る。それが青木宣親だった。当時の日本球界は、球史に残る選手であるイチローの存在感が図抜けており、左打のアベレージヒッタータイプの割合が非常に高かったのだが、その中でも青木はスペシャルな選手だった。イチローの存在があったため、05年~11年までの数字もどこか過小評価されていたような記憶もあるのだが、日本を代表する安打製造機だったことに違いはない。11年に関しては、低反発球の影響もあり、打率が伸び悩み、ホームランの数も大きく減少した。そして青木自身初のリーグ優勝に向けて戦っていたのだが、最後に中日に大逆転を許し、リーグ優勝を逃してしまった。このシーズンは、おそらく翌シーズンからメジャーに挑戦することを決めていたように感じる場面があった。自身の不甲斐なさにイライラを出す場面もあったし、今まで以上に感情を表に出して戦う姿が多かったように記憶している。
②12年~17年「メジャー挑戦」
・当時、日本人野手は、MLBの壁に阻まれることも多くなっており、当初は青木の評価も高くなかった。「青木ブルワーズ入団決定 | ヤクルトファンの日記 (ysfan-nikki.com)」、このブログ記事でも書いたのだが、最終的には入団テストを受けて、交渉期限ぎりぎりで契約にこぎつけてみせた。そんな青木は、その後結果を残し続け、レギュラーを獲得してみせた。苦しい立場からのスタートだったはずなのだが、確かな実力でレギュラーを獲得し、3割近い打率を残すとともに、30盗塁を記録し、チームのリードオフマンとして活躍してみせた。
ロイヤルズへ移籍した14年シーズンは、チームの快進撃に大いに貢献し、ワールドシリーズへ進出してみせた。このシーズンは個人成績自体は、そこまで高くなかったのだが、ポストシーズン以降は、日本での報道も多かったため、私の中では、印象に残るシーズンとなっている。
その後は、ジャイアンツーマリナーズーアストロズーブルージェイズーメッツと渡り歩く、いわゆる「ジャーニーマン」として苦労しながらメジャーの舞台にしがみついてみせた。このメジャーでの経験が、青木を大きく成長させたのではないか?そしてメジャーでの人間的な成長を第2期ヤクルトスワローズ時代でチームへ還元してくれることとなる。
③18年~24年「チームのために」
・17年、ヤクルトスワローズは、歴史的大敗を喫し、18年シーズンは小川監督が再登板となり、チームを再建するシーズンとなっていた。そんなヤクルトに戻ってきたのがヤクルトのスーパースターであり、現役メジャーリーガーだった青木宣親だった「青木が戻ってくる!さあ競争だ! | ヤクルトファンの日記 (ysfan-nikki.com)」。7年ぶりにヤクルトに戻って来た青木は、以前の孤高の打撃職人のイメージではなく、チームの優勝のためにリーダーとして戦う覚悟を決めているかのようだった。若手選手へ積極的にアドバイスを送る姿も目立ち、背中でも言葉でもチームを引っ張れる存在となっていた。上記のブログ記事でも示していた通り、個人的には年齢的な衰えについても少なからず不安視していたのだが、復帰1年目にいきなり打率.327という数字を叩き出し、チームを2位に躍進させてみせた。この躍進には様々な要素が絡み合っていると思うのだが、青木がヤクルトに復帰してくれたことも大きな要因になっていたことは間違いないだろう。
その後もレギュラーとして活躍を続け、21年には念願のリーグ制覇と日本一、22年にはリーグ2連覇を達成してみせた。この頃になると打撃成績は下降線を辿っていたのだが、そんなことは気にならないくらい、青木はチームに必要な存在で居続けてくれた。リーグ優勝時、日本一を達成した際の嬉しそうな表情が忘れられない。
今シーズンは、中々結果を残せない中で8月に登録抹消となり、そして今日の引退発表となった。
スワローズには、球団史に残るスーパースターが何人かいるのだが、青木も間違いなくその中に入るスーパースターである。私達ヤクルトファンを大いに楽しませ、興奮させてくれた特別な存在である。そして日本代表として国際試合でも輝きを放った野球人でもある。そんな青木宣親を21年の長きに渡って見続けることが出来た私は、幸せ者なのだと思う。引退試合は、10月2日ということである。その雄姿を目に焼き付けたいと思う。
「ヤクルトファンの日記」を書き始めて以降の印象に残るゲームを貼っておきたい。
「青木様(生観戦) | ヤクルトファンの日記 (ysfan-nikki.com)」
・この試合を生観戦出来たことは一生の思い出である。
「日本一への挑戦権を得る! | ヤクルトファンの日記 (ysfan-nikki.com)」
・結果的にCS突破を決めることとなった逆転タイムリーヒット。ベンチの雰囲気は、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。
価格:1980円 |
にほんブログ村
コメント
日本での通算打率はトップ10以内、日米通算安打も上にはイチロー張本野村王というスーパーレジェンドがいるだけですからね。積み重ねた数字は素晴らしいの一言です。選手青木は終わりでも野球人青木はまだ終わりではないでしょう。今後については気になるところですが、ひとまず長い間お疲れ様でした。
超匿名さんへ
数字的には、NPB単独での2000本安打を狙っていた部分はありますかね?
それでも日米通算2723安打という数字は、十分スーパーレジェンドですよね。もう1本でも2本でもヒット数を増やしてもらいたいですよね。